「歴女」「歴男」という言葉がブームになったこともありますが、故郷の歴史を調べていくと思いもかけない事実に気づかされます。
昨年、勝興寺を見学した際、観光ボランティアガイドの方から、本堂は加賀藩主第11代を継いだ前田治脩の支援を受けて建立されたと伺い、前田家との関係はここにもあったのかと思っていたら、このお正月の参拝の際、ご門徒の方から、「そもそも、この場所に勝興寺が建てられたのは、前田というより佐々成正のおかげなのです」という話を聞きました。
「えーーーーっ、佐々成正!!」 佐々成政と勝興寺は、どんな関係があるのだろう?
佐々成政肖像(富山市郷土博物館蔵)
佐々成政(さっさ なりまさ)という戦国武将は、織田信長に仕えて、朝倉義景攻略や石山本願寺の一向一揆攻撃を行い、越中富山を与えられました。天下統一を目前にした織田信長が討たれた「本能寺の変」の後、豊臣秀吉と戦いましたが、小牧・長久手の戦で破れます。一命は助けられたものの、妻子と共に大坂城下に移住し、秀吉に仕えることになります。秀吉の九州征伐後には、肥後の領主となりましたが、肥後一揆の責任をとがめられ切腹し生涯を終えています。
歴史を調べてみました。
応仁の乱が終わったころの世の中は、「下剋上」が盛んに起こるようになりました。「一向一揆」とは、戦乱のない平和を目指して、信仰で結ばれた地侍や農民たちが、守護大名や荘園領主と戦った一揆のこと。浄土真宗が一向宗(いっこうしゅう)と呼ばれたことから一向一揆と呼ばれます。「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで極楽に行くことができるという「浄土真宗」の教えは、一般の人でも簡単に信仰することが出来たので、浄土真宗が急速に広まっていきます。天正8年(1580)の石山本願寺の織田信長の石山合戦を最後に幕を閉じましたが、戦いは約100年続きました。
蓮如上人 肖像画
勝興寺は、本願寺八世蓮如上人が、文明3年(1471年)越中の布教の拠点として、土山御坊(現在の南砺市福光土山)を開いたのが始まりです。その後、高木場御坊(現在の南砺市高窪)に移り、またその後、安養寺御坊(現在の小矢部市末友)に移って、井波の瑞泉寺とともに越中国一向一揆の二大勢力を誇るまでになりました。
今、勝興寺がある場所は、古国府城の城址跡です。何故、古国府城のあった場所に勝興寺が移って来たのか?それは、古国府城主 神保氏張の生涯に関係してきます。神保氏張は、能登の畠山氏出身で、越中守護代 神保氏の分家である神保氏純の養子でした。その頃、越中には、上杉謙信が度々侵攻を繰り返しており、神保氏張は上杉氏と敵対関係にありました。一方で、初代 富山城主の神保長職は上杉謙信に臣従していたので対立していました。また、一向一揆衆が上杉氏を攻撃することもあったようです。永禄11年(1568年)守山城主になっていた神保氏張は、上杉謙信に攻撃を受けます。その時に越後で本庄繁長の乱が勃発したため、謙信軍は越後に引き返しました。上杉軍の攻撃は免れたものの、神保家から神保氏張の領地を取り上げられることになり、京に追放されます。元亀3年(1572年)頃、神保長職が死去。神保氏張は、織田信長に近づき、織田信長の妹を妻にして、織田信長の家臣となり、越中国に戻って再び、守山城主となります。しかし、天正5年(1577年)頃、上杉謙信に守山城を攻め落とされ、神保氏張は上杉氏に降伏します。激怒した織田信長は、嫁がせた妹を離別させ、神保氏張を追放します。一方、勝興寺は上杉氏と和睦を結び、その支配下となります。そして、加賀から逃れた一揆勢を結集し、越中一向一揆は上杉景勝と結んで織田方との戦いを続けました。
上杉謙信 肖像画
天正6年(1578)3月上杉謙信の死去を機に情勢が変わってきます。もともと上杉家に臣従していた木舟城(現在の高岡市福岡町)城主 石黒左近(成綱)は、上杉家を離反し織田信長方につき、一向一揆勢の重要拠点で、当時、上杉方だった安養寺御坊を天正8年(1580年)2月、天正9年(1581年)4月と2度にわたって、攻撃し焼亡させました。
この直後、勝興寺からの訴えを聞いた、上杉方の増山城(現在の砺波市増山)城主 吉江宗信によって、木舟城は攻め落とされます。同年7月、成綱をはじめとする石黒一門30人が、信長に近江国佐和山城(現在の彦根市)に呼び出され、上杉氏に寝返る可能性のある者や上杉氏に通じているという疑いがあるとして、皆殺しにされました。
出典:周延/Chicanobu「石山大合戦之図」
さて、これからは神保長住の説明に入ります。神保氏張、神保長住と神保という名前は多く出てくるのですが、全くの別人です。神保長住は、神保長職の子で、上杉氏についた父と対立し、京都に上がって織田信長に仕えていました。織田信長は、上杉謙信が死去したと聞くと、すぐに神保長住を飛騨ルートから越中国へと送り込みました。長住は、城生城(現在の富山市八尾町)城主 斎藤信利や、小谷六右衛門、上熊野城(現在の富山市上熊野)に居城していた二宮長恒を味方につけ、増山城を攻略して越中西南部を制圧します。さらに、富山城を攻めて、神保氏の居城であった富山城を奪還しました。一方、加賀ルートからは、越前府中三人衆であった佐々成政を送り込みました。織田軍の柴田勝家が一向一揆を制圧し、加賀を平定すると、佐々成正は、それに従軍して能登国や越中国に進出していました。神保長住の助勢のために天正9年(1581年)越中国に入り、神保長住は成政の指揮下に入りました。当初、成正は守山城に入り、分家で旧同城主であった神保氏張を与力とし、支配の一端を担わせました。
富山城には、神保長住が入りましたが、翌年、天正10年(1582年)3月、長住が旧臣に富山城を急襲され幽閉されるという事件が起こります。すぐに織田軍の反攻によって助けられましたが、この事件により、長住は失脚し追放されました。長住の失脚により、成政は、越中国一国守護大名になり、富山城を本拠として大規模な改修を行いました。織田信長が本能寺で討たれた後も、佐々成政は越中にとどまり、天正11年(1583年)には魚津城を開城させて、越中を平定すると、神保氏張は成政に臣従します。
富山城 天守閣
天正12年(1584年)、豊臣秀吉と敵対した佐々成政に、氏張は、一向一揆衆を味方につけるために古国府一円を寺に寄進する献策をします。成政は、古国府城の城地を勝興寺に寄進して、寺を末友にある安養坊から伏木へと移しました。古国府城は、越中守山城の出城として、伏木港を押さえる役割を持っていました。それによって勝興寺は現在の場所へ移ったのです。
天正13年(1584)7月、秀吉が敵対を続ける成政を討つため越中に向かうことが明るみになりました。当時、在京していた勝興寺 顕幸(顕栄の子)は、いち早く動き、秀吉に通じ寺内に対する制札の発給を受け、先導して加賀に向かいました。同年8月、佐々成政が秀吉に敗れ、前田利長が越中三郡を拝領し守山城主となると、勝興寺に制札を与え、直ちに寺領を保証し承認しました。
越中における一向一揆勢力の中心であった勝興寺と前田家との和睦は、前田利長によって始まりました。利長は、天正16年寺領として100俵の地を寄進したのをはじめ、勝興寺に手厚く守ってきたことで、勝興寺は、越中における浄土真宗本願寺派の筆頭寺院として重要な役割を果すようになります。
前田利長像
正保4年(1647年)、西本願寺准如 六男の良昌が勝興寺に入ると、三代利常公の養女つる(家臣 神谷長治 娘)が嫁ぎました。鉄砲20丁、槍10本、弓矢20本に米750石と人まで付いた嫁入りだったといいます。勝興寺と前田家の姻戚関係が始まり、越中における勝興寺の立場は本願寺・前田家の両方から堅固に支えられるものとなりました。
勝興寺 宝蔵
勝興寺は、高岡町が開町する15年前から、現在の場所に寺領を与えら、高岡開町後も変わることはありませんでした。戦国時代は、権力で人々を支配させ、殺し合いを続け、敗者は一族郎党みんな罪を負わなくてはならない時代。正義とは何だろうと考えさせられます。ドラマで描かれていることが現実にこの地で起こっいたんですね。争いの無い、泰平の世の中を夢見て、命をかけて戦った先人たちは、今の私たちをどう見ているのでしょうか・・・。今まで、名前しか知らなかった武将たちがこんな身近に関わっていたとは、歴史って面白いですねー。雪が解けたら歴史の跡を歩いてみたいです。