重要伝統的建造物群保存地区になった高岡市吉久地区を高岡市観光ガイドボランティアグループ「あいの風」杉山さんに案内していただきました。まずは、案内図を見ながら、吉久地区の位置関係を確認します。吉久は小矢部川と庄川に挟まれた河口部に位置し、水運の便が良く、江戸期に加賀藩の年貢米を保管する倉庫「御蔵(おくら)」が置かれ、砺波平野、射水両平野で収穫された米を、伏木から北前船で大坂や江戸へ運ぶ備蓄・流通拠点として発展しました。最大で年間1万石を扱い、江戸後期には6棟が置かれ加賀藩最大規模となりました。明治期の地租改正で御蔵は廃止されましたが、有力町民は米穀商や倉庫業で財を成しました。

町への入り口には、ひげ文字で「南無妙法蓮華経」と刻まれた石碑がありました。

説明の中で、度々出てきた「在郷町」という言葉。その意味は、農村の中に形成された町場を意味します。主要な街道や水運航路が通る農村においては、その街道沿いに形成されています。

御蔵の設置に伴って、近隣の村々より人が集められ、重要な米の集散地として栄え始めました。北前船の拠点であり、御蔵の機能を軸として、その役目を務める人々や様々な商売に携わる人々が行き交う都市的性格をもつ在郷町だったようです。

明治期に入ると、廃藩置県によって吉久の御蔵も御県蔵と改称されましたが、そのまま米や魚肥の倉庫として使用し、明治維新後は江戸時代と同じく、伏木港への最前線基地としての役割を果たしていました。明治6年の地租改正条例によって、これまでの年貢米の流通システムが崩壊し、御県蔵は明治8年に取り壊されました。その御蔵跡に行ってみました。

 

(西照寺境内に設置の吉久御蔵跡案内掲示版より)

吉久御蔵跡 江戸時代

加賀藩の経済の基本は、領内の村単位で定められた免(めん)と呼ばれた課税率に応じて年貢として藩に収められる米でした。この年貢米は、藩の財政を担う御詰米(おつめまい)と家臣の給与となる給人米(きゅうにんまい)に大別され、御詰米を収納する藩営倉庫の「御蔵」と、給人米を取り扱う蔵宿が管理する「町蔵」に保管されました。
砺波郡と射水郡に設置されていた各御蔵(現市内には、吉久のほか高岡古城内、伏木、能町、立野、戸出、中田などにあった。)に収納された御詰米は、春になると主に河川を利用して吉久、伏木の御蔵に川下げされ、伏木浦から大型の外海船(とかいせん)に詰め替えて江戸、大阪、金沢、松前などへ回送された。小矢部川と庄川が合流していた射水川河口(当時)の右岸に位置する吉久に御蔵が設置されたのは、寛文2年(1662)以前といわれ、文政9年(1826)には6棟36戸前の御蔵が置かれていました。吉久では御蔵成立後、この米の荷役のために人々が近郷から集まり、新たに吉久新村が形成されたと考えられています。 伏木浦から各地へ回送された米は年間3~5万石あったが、小矢部川、庄川の両川筋の14箇所の御蔵のうち、この出船米約3万石の25%にあたる8,000石が吉久御蔵から積み出され、越中の御詰米の集散地として重要な役割を果たしていたことが伺えます。 

御蔵、御県蔵の廃止後、吉久の有力な町民は、合同で米穀売買や倉庫業に進出し成功を収めました。吉久ではこうした有力な町民を「米商」「蔵仲間」と呼び米商の繁栄は続きました。

緩やかに旧道が湾曲し、江戸後期から近代に建てられた当地域独特の切妻造平入の町家が軒を連ねています。道路に面して主屋を建てて、主屋背面の中庭をはさんで土蔵が建っています。主屋は真壁造りとして、切妻造平入で桟瓦葺き。主屋1階の平面は通り土間を設けず、敷地間口いっぱいに部屋を設けるものが多く、玄関奥の部屋を「オイ」と呼び、上部が吹き抜けになっています。


正面は、サマノコと呼ばれる格子が、吉久では出格子形式で付いており、桟が細く間隔も細かい格子です。大屋根の出桁を登梁で支える主屋の二階は袖壁を設け、窓を設けず「アマ」と呼ばれる稲わらを収納する物置を配置した家が多いそうです。

往時の面影を色濃く残す「能松家」「有藤家」「丸谷家」は国登録有形文化財になっています。

続いて、吉久神明社を見学。見上げた鳥居は、貫も柱の外を突き出ていない形です。

神明社は、伊勢神宮を総本社とし、天照大神を主祭神として祀る神社のことで、通称として「お伊勢さん」と呼ばれています。

狛犬二体のうち一体は1555年の建立を示す刻銘「天文廿四」があり、銘がある狛犬では県内最古とされています。 狛犬は「阿像」と「吽像」の二体で、いずれも淡緑色凝灰岩の越前笏谷石製。阿像は総高22.8センチで前足の下部と台座の一部が欠けていますが、刻銘が右足の外側にあります。吽像は総高18.2センチのほぼ完全な形で残っていました。 

神明社の中にあった吉久基標は、河川の縦断や横断等、高さに関する測量の基準となるものです。

吉久地区の町並を歩いたのは、12月21日、その2日後の23日に正式に重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。

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