私達が出来ることは「良き食事をする」こと。本来の家庭料理の在り方を知ると暮らしのかたちと食の目的が見えてくる。

おいしいものを食べるばかりが、食の目的ではありません。

家庭料理に関わる約束とは、食べることと生きることのつながりを知り、ひとり一人が心の温かさと感受性を持ち、人を幸せにする力と、自らを幸せになる力を育むものです。

 

 

・贅と慎ましさのバランス

 

日本には、「ハレ」と「ケ」という概念があります。ハレは特別な状態、祭り事。ケは日常です。日常の家庭料理はいわば「ケ」の食事なのです。手間を掛けないでよい「ケ」に対して、「ハレ」にはハレの料理があります。両者の違いは、「人間のために作る料理」と「神様のために作るお料理」という区別です。

それは、考え方も作り方も正反対になるものです。ハレの神様が食べるようなお料理は、ケの素材を生かすというよりも、人間が知恵を絞って様々に工夫して時間を惜しまず、彩り良く美しく作ります。

日本には少なくとも、手を掛けるもの、手を掛けないものという二つの価値観があるのです。この一見相反する二つの価値観を並存させ、けじめをつけて区別し、場によって使い分けるところには、それぞれの合理化があります。ところが、今の日本は、その二つがごちゃごちゃになって混乱しているのです。

多くの人が、ハレの価値観をケの食卓に持ち込み、お料理はテレビの食番組で紹介されるようなものでなければならないと思い込んで、毎日の献立に悩んでいるのです。

庶民が手の掛かるご馳走を喜ぶのは、高価な物への憧れです。手の掛かった暮らしに憧れ、高価なものが良いと信じて、一方で当たり前にやるべきことを嫌う。そこに矛盾と無理が起こってきます。

人間の「生活」とは、生きるための活動ですから、そこには外での仕事も含まれます。

家の中の務めは「暮らし」のことです。昔は、外の仕事も家の仕事も区別なく、同じように向き合い、つながっていたように思いますが、今では外の仕事のほうが重要視されるようになって、暮しがおろそかになっている。でも、幸せは家の中、暮しの中にあるものと思います。

 

 

・良く食べることは良く生きること

食べることで私たちの体質は作られる「体質即食物」だと医師の秋山辰一郎先生は言いました。

人が健康でいられるためには「環境」が重要ですが、その環境の中でも、食べ物がそれを代表していると言うのです。食べ物によって体調を崩すことがあり、食習慣によって病気にかかりやすくなります。反対に、食べることで、私たちは健康でいられるし、病気にかかりにくい体質にもなるのです。

食べる物で、私たちは体質を改善できます。人の細胞は絶えず生まれかわり、数か月もすればほぼ別の肉体になると言われます。そのために安定的に良い食事をする必要があるのです。

 

今の加工品のすべてが健全に命を育んでくれるものばかりでないことは、だれにでもわかるでしょう。

しかし、自分で料理することで浄化されるのです。便利な加工食品を利用しても、自分で料理すればある程度、自分と家族を守ることが出来ます。

そもそも食文化というのは、その土地の風土の中で安心してものを食べる合理的な方法で成り立っています。最近はよく「機能的」なことを「合理的」という言葉にすり替えて言われますが、時間を短縮する、便利で都合のよい「機能」と理にかなった「合理」では意味が違います。機能性は、多くの場合に素材本来が持つおいしさと健康価値を犠牲にします。お料理を自分で作るのであれば、どんな食材、どんな調味料を使うかを自分で決められます。目で見て手で触れて料理することで、人間はその根本にあるものと直接つながることが出来るのです。

私たちは生きている限り「食べる」ことから逃げられません。「食べることは生きること」「良く食べることは良く生きること」なのです。

今、私たちの周りには食べる物があふれるようにあって、選ばなければ食べることに困ることはありません。面倒な時には食べなくていいし、食品の良し悪しを気に留めなくても生きられます。何も考えなければ別に問題はないし、人に迷惑を掛けることもありません。だから、好きなものばかり食べることは、大自然のルールでは、少し怒られるかもしれませんが、人間の作ったルールの中では何も悪いこととは言えません。でも、たぶん、食べるということは、とても大切なことだと思います。いや、おそらく、だれもがすでにその身体でわかっていることだと思います。

 

私たちができることは何かと言うと「良き食事をする」ことです。

 

出典 「一汁一菜でよいという提案」  土井 善晴 著

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